名古屋最大の用水

その歴史は戦国時代から

庄内川と堤防

名古屋市内を流れる最大の農業用水である庄内用水。 まずは、その歴史を紐解いてみましょう。

【戦国時代】

惣兵衛川とも呼ばれる庄内用水の開削は、織田信長や豊臣秀吉が活躍していた頃の戦国時代にされたといわれています。 戦国時代は領地の経済力が国力となりそのまま戦争時の戦力になるため、国内の農業や商業、治水や道路整備にも力を注いでいました。 旧庄内川の河川を利用した小規模用水による稲作は行われていましたが、より国力を上げるために庄内用水が造られたのです。

【尾張六大用水】

庄内用水は庄内川から取水し、名古屋の西半分の地域を灌漑していました。 江戸時代の書物「古今卍庫」には尾張の六大用水の一つとして「稲生杁」の名前で載せられております。 庄内用水の支川には東井筋、中井筋、米野井筋、稲葉地井筋があり、これら支川からさらに枝分かれした水路が網の目のように張り巡らされていました。 最盛期には3,900ヘクタールもの田を潤していましたが、都市化とともに埋め立てられ、今ではわずかに残る77ヘクタールの田に利用されているだけです。

【水量の確保】

今でも夏になると、毎年のようにどこかで水不足を起こしています。 今の時代の水不足は多少生活が不便になるという程度ですが、かつての農民にとって水不足とは、文字通り死活問題でした。 そして用水の歴史は、水量を確保する歴史と言っても過言ではありません。 庄内用水も長い歴史の中で、何度も取水する場所や流路を変えてきました。 河川の上流部では水の流れによる浸食で川底が下がっていくのに対し、下流部では土砂の堆積で川底が上がっていきます。 川底が下がると水面も低くなり、用水のへの取水が難しくなります。 一方川底が高くなると、用水へも土砂が流入して用水路の維持が難しくなります。 用水があっても、安定して十分な水量を確保することは大変なことだったのです。